青の名前

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天川栄人のブログです。新刊お知らせや雑記など。

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【短編】まさかさかさま

 十歳の男の子にとって、一番の誉め言葉は、「かっこいいね」でも「かしこいね」でもない。「足が速いね」は、かなりいい線行ってるけど、一番は、これだ。「強いね」。
「つえー」は最高の賛辞だ。力が強いとか、体が大きいとかは関係ない。大事なのは、勇気を見せられるかどうか。だからときには、いろいろの悪さをするけども、十歳の男の子はみんなこうなんだから、許してほしい。と、彩人(いろと)は思う。でも、母さんはそうは思わない。
「夏休みが終わるまで、クラブはナシです」
「え~~~~~~~!!!」
 彩人は絶叫した。
「おふざけが過ぎるって、コーチからさんざん言われました。クラブは、サッカーをしに行くところであって、ケンカや、チャンバラをするところではないの」
「母さん、チャンバラって死語だよ」
「揚げ足を取らない」
 母さんは、彩人の鼻の頭を指先でつついた。まるで、そこにスイッチがあって、押すと彩人のおふざけが止まるとでも思ってるみたいに。
「とにかく、クラブは禁止。夏休みが終わるまで一週間、我慢しなさい」
「じゃあうちにいるの?」
「まさか。あんたがうちに一人でいたら、また悪さをやらかすでしょう」
 否定はできない。彩人の頭の中には、すでに七つは案が浮かんでいた。
「学童が終わったら、わかば園に来るのよ。母さんの仕事が終わるまで、ロビーで宿題でもしてなさい。どうせ終わってないんでしょ」
 彩人の顔から、さあっと血の気が引いた。
 わかば園は、母さんの職場だ。彩人と同じくらいの年の子どもが通っているけど、小学生なのは外見だけで、みんな中身は幼稚園児か、それ以下。会話にすっごく時間がかかったり、同じことを何回も言わなきゃいけなかったりする。
 彩人が最近ハマってるゲームで言うと、「のんびり」タイプの子たちだ。「こわがり」とか「くうそう」タイプもいる。
 わかば園は彩人の通う小学校の隣にあるから、体育の時間なんか、グラウンド越しによく見えるんだけど、学校のみんなは、わかば園の子のことを、内心怖がっている。わかば園の子は、何もないところを見て笑ったり、急に叫び出したりするから。
 だから、「母さんがわかば園で働いてるから、たまに行くんだよ」ってみんなに言うのは、ちょっと気持ちいい。変なことをしたやつを見て、「わかば園送りになるよ」なんて冷やかす人がいれば、彩人は勢い込んで、「そういう冗談を言うのは、よくない」と言ってやる。そうすると、とっても大人びた気分になるし、実際、みんなから尊敬の視線が注がれる。わかば園に関係する話は、何であれ「強い」のだ。そしてそれは、彩人の特権でもある。
 だけど、わかば園で毎日過ごすとなると、話は別だ。


 月曜日。
 学童が終わった後、片川たちはネットに入ったサッカーボールを蹴りけり、クラブに向かって行った。彩人はその背中を、村を焼かれた農民みたいな顔で見送る。村、焼かれたことないけど。それから、普段の半分の歩幅でちみちみ歩いてみたものの、たいして時間も稼げず、結局、十分後にはわかば園に着いてしまった。あーあ。
 重いガラス扉を押し開けると、すぐに母さんの声がした。
「ああ、彩人。ごめんね、ちょっとバタバタしてて。手洗って、ここで宿題してなさいね。わっ、またズボン汚して、もう。あとでお茶持ってくるからね。おとなしくしてるのよ」
 エプロン姿の母さんは、マッハ3のスピードで言い募り、風のように消えた。わかば園ではこれが普通だ。世話を焼かなきゃいけない相手は、彩人の他にも山のようにいる。
「はーい……」
 彩人はロビーの椅子にリュックを投げた。つるんとした緑の椅子に座り、リノリウム張りのロビーを見渡す。消毒の匂い。病院みたいだと思う。
 それから、テーブルに、漢字ドリルと筆箱を出して、なんか宿題してる風の光景を作る。
(そういえば、自由研究どーしよ)
 去年はお風呂のカビの研究だった。うっすいノートに、なんだかよくわからない黒いシミの絵が何枚か続いて、最後のページで、カビキラーで真っ白になるってやつ。彩人的には最高のギャグのつもりだったけど、先生には呆れられてしまった。もちろん観察なんかしてないのだ。お風呂にカビも生えてない。母さんには赤っ恥かかせてしまった。
(まあいいや。まだ一週間あるし)
 なんて、彩人がテキトーに考えた、そのとき。
 廊下の奥から、誰かがやって来た。
「真太郎君、どうしたの。お外で遊ぶの?」
 受付のおばさんが声をかける。
 でも、その子は答えない。代わりに、一人で何かブツブツ言いながら歩いてきて、あろうことか、彩人の隣に腰かけた。
 彩人はギョッとして、お尻半分だけ横にずれる。
 横目でこっそり見やると、ぼさぼさ頭に、ギョロッとした目をした、やせぎすの少年だった。年はちょうど彩人くらい。名札には『積木真太郎』と書かれている。
 積木は――下の名前で呼ぶのは二年生までだ。クラスメイトだって、苗字で呼び合うものだ。十歳にもなれば――しきりにキョロキョロと首を動かしながら、意味の分からないことを何度も何度もつぶやいている。
(……キモチワルイ)
 その言葉を、なんとか引っ込める。こういうことを言うと、母さんが悲しそうな顔をするので。怒られるのはいいけど、悲しい顔をされるのだけは、参る。胸がきゅーってなって、全世界に向かって謝りたくなるのだ。
 彩人は筆箱から鉛筆を取り出し、つとめて冷静に、漢字ドリルをやるふりをした。でも、積木の声は、いやでも耳に入ってくる。
「のぶそあでとそおのたしうどんくうろたんし。のぶそあでとそおのたしうどんくうろたんし……」
(何? うどん?)
 意志に反し、彩人の耳は、積木の言葉を一生懸命聞き取ろうとしていた。漢字ドリルの端っこに、聞き取れた音を並べていく。のぶそあ……のたしうど……うろたんし……。
(うろたんし……しんたろう……)
 まさか、さかさま?
「しんたろう……真太郎!」
 気づかぬうちに、声に出ていたみたいだ。びっくりしたような表情で、積木がこっちを向く。目が合う。小さな野生動物みたいな目。怯え半分、好奇心半分、の。
(ええっと……)
 彩人はごくりと唾をのみ、彼の名札を指さして、読み上げた。
「積木真太郎」
 すると、積木はぱあっと顔を明るくした。
「うろたんしきみつ。うろたんしきみつ!」
 キャッキャッと笑いながら、積木は繰り返した。その顔が、まるで赤ちゃんみたいで。彩人もつられて笑いそうになって、慌てて引っ込める。なぜだかは、わからないけど。
 彩人はなんだかまごまごしながら、つぶやいた。
「変な奴」
「つやなんへ!」
 すかさず、積木がさかさまにする。
 なるほど。つまり、これが積木のコミュニケーションってわけ。「さかさま」タイプだ。わかば園には、本当にいろんなタイプがいるなあ。
 そこに、母さんがお茶をもってやって来た。眉毛をひょいと上げ、言う。
「なつかれたね」
 彩人は何と答えてよいやらわからなかった。なつくって、動物じゃないんだから。
「ねたれかつな」
 だけど当の積木は気にするそぶりもなく、あいさつのように言葉をひっくり返している。
「真太郎君、この子は私の息子なの。名前はね」
「あ、母さん、待って!」
「彩人っていうの。い、ろ、と。よろしくね」
 ああ、まずい。最悪だ。
「と、ろ、い。とろい!」
 彩人は頭を抱えた。だから教えたくなかったのに。学校でも、周到にこの話題は避けてたのに!
 積木は嬉しそうにニコニコ笑って、繰り返した。
「とろい! とろい!」
「何回も言うんじゃねー!」

 

 火曜日。
 学童で昨日の話をしたら、片川は案の定面白がった。
「さかさまって、あれ? 手袋を逆から言うと、みたいなやつ?」
「あー、そういうこと」
「手袋を逆から言うと?」って訊いて、「ろくぶて」って答えたら、「六回ぶて」ってことだから、六回叩く。そんな遊びが、ちょっと前に流行った。引っかかるのは最初だけだから、みんなすぐに飽きたけど。
 積木の場合、とにかくなんでもかんでもさかさまに言う。たぶん内容とかは理解してなくて、条件反射でひっくり返すのだ。
「台風十三号は熱帯低気圧に変わりました」
 わかば園に着いて、開口一番、なるべく難しそうな文章を早口で言ってやったけど、
「たしまりわかにつあきいていたっねはうごんさうじゅうふいた」
 間髪入れず、そう返された。どういう耳してるんだよ、こいつ。
「わあ、すごいね、真太郎君」
 母さんが褒めるけど、積木は照れもせず、相変わらず落ち着きなく目を泳がせている。彩人はなんだかイライラした。逆から言うだけだろ。何がすごいんだ。
「母さん、何か言ってよ」
「何かって?」
「何でもいいから」
 彩人がごねると、母さんはちょっと考えてから、指を一本立てた。
「今日の晩ごはんは鶏の照り焼きです」
(す、で……)
 彩人が考え始めて間もなく、
「すできやりてのりとはんはごんばのうきょ」
 積木がさらりと答えてしまう。
「あーもう! 積木、先に答えないで!」
「でいなえたこにきさきみつ!」
「だから! 言うなって!」
「らかだ! てっなうい!」
 言い合う二人の前で、母さんは困ったような笑みを浮かべた。
「悪いけど、忙しいから私はもう行くわよ。じゃあね」
「「ねあじゃ!」」
 それから、何度か勝負してみたけど、彩人は結局、一度も勝てなかった。彩人がどれだけ長くて複雑な文を言っても、積木に必ずひっくり返される。自分の言葉が無効化されるみたいで、なんか悔しいけど、認めざるを得ない。
「お前、すごいわ」
「わいごすえまお」
(ぷっ。わいごすってなんだよ)
 みょうちきりんな音の並びに、彩人は思わず吹き出してしまう。積木もヒヒヒと笑った。
(ん? ちょっと待って)
 今、いいこと思いついた。
 彩人は顔を上げ、積木をまっすぐ見て、言った。
「しんぶんし」
 すると、積木はいつものように、逆さから言う。
「しんぶんし……」
 そこで、彼は、きょとんとした表情で首を傾げた。
 あれ? ひっくり返したつもりなのに、ひっくり返せなかった、みたいな顔。
「しんぶんし? しんぶんし?」
 混乱した様子の積木を見ながら、彩人は心の中でガッツポーズをした。
(ふははは。勝てる。勝てるぞ!)
 何の勝負だかよくわからないけれど、上から読んでも下から読んでも同じ言葉なら、ひっくり返すことはできない。そっくりそのまま繰り返すことになるだけだ。
(ひっくり返したきゃ、ひっくり返してみろ!)
「トマト」
「とまと」
「竹やぶ焼けた」
「たけやぶやけた」
 ニヤリ。これはいけるぞ。
 彩人はえらそうにふんぞり返り、言い放つ。
「私負けましたわ」
「わたしまけましたわ」
 積木は素直に答えた。
(やったぞ。負けを認めさせてやった!)
 ちょっとズルっぽいけど、気分はいい。
「わたしまけましたわ! わたしまけましたわ!」
 積木はまだブツブツ言っている。意味わかってんのか、こいつ。
 でも、これ、ちょっと面白いな。他にも何かあったような気がする。ちょうどいい。これを自由研究にしてやろう。いろんな文を集めて、ノートにまとめればいい。
 で、ついでに積木の話をしたら、きっとみんな大盛り上がりするだろう。わかば園の子と話すなんて、みんなからしたら、とんでもなく「強い」ことだ。彩人の株も上がるに違いない。

 

 水曜日。
 学童で、普段なら寄り付きもしない図書コーナーにかじりついている彩人を見て、片川たちは不審がっていた。でも、気にしてはいられない。一つでも多く、上から読んでも下から読んでも同じ文――回文を探さなければ。
 彩人は『言葉遊び大辞典』と首っ引きで、ノートに回文を書き写した。ついでに、下手な絵も添える。うん、これは、かなりいい感じだぞ……。
 そして、わかば園のロビー。
 彩人は積木と膝付き合い、とっておきの回文たちを披露した。
「ナスですな」
「なすですな」
「たぶん豚」
「たぶんぶた」
イカのダンスは済んだのかい」
「いかのだんすはすんだのかい」
 ぷっ。時おり吹き出しながら、彩人はなおも続けた。
「禿げ頭にまたアゲハ」
「はげあたまにまたあげは」
 ぎゃははははは!
 我慢できなくなって、二人はおなかを抱えて笑った。なんだかよくわからないけど、この遊び、めちゃくちゃ面白い。
「何がおかしいんだか」
 母さんは呆れてたけど、二人は結局、これを三周繰り返した。
 ケタケタ笑う積木は、どこにでもいる男の子みたいだった。

 

 木曜日。
 昨晩、ネットで調べてさらに書き足し、回文でいっぱいになったノートを持って、彩人はわかば園に向かった。
 うん、これはなかなかの自由研究になるぞ。なんなら、オリジナルの回文を考えてもいいかもしれない。なにしろ、自動逆さ読みマシーンが隣にいるんだから、難しくないはずだ。
「じいさん天才児」
「じいさんてんさいじ!」
「ぎゃははは! じいさん天才児!」
 回文ゲームは昨日にもまして盛り上がった。
 ゲームと言っても、彩人が読み上げて、積木が繰り返すだけだけど。彩人がノートに描いた下手くそな絵を指さして、積木はキャッキャと笑う。それを見て、彩人はなんだか嬉しくなる。
「積木、これはすごいよ。かっこいいから。聞いて。世界を……」
 と、そのとき。
「おーい」
 ドアの方から声がして、彩人は振り返った。
「片川!?」
 見れば、そこにいたのは、片川だった。
 彩人は、さっと立ち上がった。なんとなく、積木を隠すように、前に立つ。
「ど、どうしたんだよ。クラブは?」
「それがさー。めっちゃおもろいの、コーチがぎっくり腰だって!」
「マジかよ!」
「マジマジ。で、急遽休みになったから、みんなで学校のグラウンドでサッカーしよーってなって、こっち来た。で、そういえばお前わかば園にいるじゃんって思って、来ちゃった」
「来ちゃった、じゃねえよ。わはは」
 笑いながらも、彩人の顔はひきつる。なんだかばつが悪い。
 片川はちょっと背伸びして、彩人の向こうを見やった。そして、積木を目ざとく見つけ、
「あれ、もしかしてそいつ? 手袋君?」
「あー、えっと、うん」
 彩人は観念して、うなずく。片川は興味津々といった感じで、積木に近づいた。積木は、また野生動物モードに戻り、びびってキョロキョロしている。
「ほんとになんでも逆さまにすんの?」
 片川が尋ねる。おもちゃの使い方でも訊くような言い方に腹が立ったけど、
「……うん」
 彩人は一応うなずいた。
 すると、片川はニヤリと笑い、いきなり積木に言った。
「てぶくろ!」
 積木は反射で返す。
「ろくぶて」
 あ、まずい。彩人が何か言うより先に、
「ひっかかった。六回ぶてってことだな!」
 片川が右手を大きく振り上げた。
 その瞬間、ヒッって、息を吸う音がして。
「あああああああああああああああああ!!!」
 つんざくような大声で、積木が叫んだ。
 目を見開き、身体をがたがた震わせ、その場にうずくまる積木。
 彩人と片川は、動くことすらできなかった。
「どうしたの?」
「真太郎君? 大丈夫?」
 すぐにスタッフの人が駆け寄ってきて、真太郎を囲んだ。
「お、おれ、何もしてません!」
 片川が叫んだけど、誰も聞いてない。
 積木は頭を抱えるようにして、何かブツブツ言っている。
「な、何言ってんの?」
 まだキョドっている片川を、彩人は積木から引き離す。なぜだか体がカッカする。顔を上げられなくて、床を睨んだまま、言う。
「いいから、片川はもう帰って。みんなとサッカーしてて」
「お、おう。なんか、悪いな」
 片川が去った後も、彩人は積木の方を振り返れなかった。積木は、スタッフの人に連れられて、どこか奥に引っ込んでしまった。

 

 その晩。アパートの外の階段で、彩人は母さんと並んで座っていた。
「大人の話」をするときは、いつもここと決まっている。八月の夜の、湿った空気。母さんは彩人の肩を抱え、頭を撫でながら、言った。
わかば園には、お父さんやお母さんのいない子も、たくさんいるの」
 彩人のクラスにだって、お父さんやお母さんのいない生徒はいる。でも、わかば園の子は、ちょっと意味が違うだろうなと思う。意味ってか、重さが。
「真太郎君はね、お母さんから、つらい仕打ちを受けたみたいなの」
 母さんはそこまでしか言わなかった。でも、彩人にはわかった。
 ここ数日で、さかさま回路のできた彩人の耳は、たしかに聞き取ったのだ。
 あのとき、積木がつぶやいていた言葉。
 いなくいわか。
 いるわちもき。
 れなくない。
 よつぶ、よつぶ、よつぶ、よつぶ……。
「数年前に保護されて、今はおばあちゃんと一緒に暮らしてるんだけど。そのころからずっと、さかさま言葉しかしゃべらないんですって」
 大人の言葉と、子どもの言葉って、違う。彩人の言葉と、積木の言葉も、違う。
 それぞれの頭の中に、辞書があるとして。積木の辞書は、たぶん、普通の大人の、百分の一くらいの厚みしかないだろう。
 母親から、ひどい言葉を投げかけられて。たぶん、何度も、ぶたれて。
 言い返したいのに、言い返すための言葉が、なかったとしたら。
(ああ、だから)
 可愛くない、気持ち悪いって言われて。そんなことないって、そんなこと言うのやめてって、言いたいけど言えなくて、だから、
(だから、ひっくり返したんだ)
 積木は、戦ったんだ。積木なりのやり方で。
 彩人は、震える息を吐き出した。暑いのに、鳥肌が立っていた。
(積木。おれはお前を尊敬するよ)
 積木は、勇敢だと思う。彩人なんかよりもずっと、百倍もずっと、勇気があると思う。
 でも、でも、いつか。
 ひっくり返さなくても、受け入れられるようになるといいよな。世界を。
 そのまんま繰り返しても安心な言葉が、お前のまわりに、あふれてるといいよな。
 視界がゆるんできて、彩人は、目元をぎゅっとぬぐった。

 

 金曜日。
 夏休みは今週で終わりだから、彩人がわかば園に来るのは、今日が最後だ。
 おそるおそるガラス扉を開けると、積木はいつも通り落ち着きない様子でロビーの椅子に座ってて、安心したような、悲しいような。
(昨日のこと、忘れちゃったのかな。おれのことも、忘れる?)
 まあ、別に、いいんだけど。
 彩人は積木の隣に座った。そして、言う。
「積木、昨日のこと、ごめんな」
「なんめごとこのうのききみつ」
「片川も悪気があったわけじゃないからさ、許してほしいんだよね」
「さらかいなじゃけわたっあがぎるわもわかたか、ねよだんいしほてしるゆ」
「てか、おれのことも許して」
「……」
 積木はそこで、彩人の方を向いた。
 え、なんで黙る? なんで首を傾げる?
「いや、だから、その……悪かったなって思って。キモチワルイとか、思ったし……」
 彩人がごにょごにょ言いかけたとき。
「彩人、来てたの。もう帰るよ」
 母さんがやって来た。そういえば、金曜は1時間早く上がるんだった。
 彩人は立ち上がると、リュックを探って、積木にノートを渡した。
「あげる」
 積木は、ポカンとした顔で、こっちを見上げる。
「るげあ?」
「え? ああ、そう。自由研究のつもりだったけど」
「どけだんたっだりもつのうきゅんけうゆじ?」
「いや、いいんだって。受け取って」
「てっとけう……」
「うん。大丈夫」
「ぶうじょいだ」
 彩人がうなずくと、積木はノートを受け取り、おずおずとめくり始めた。
 その様子を見ていた母さんが、驚いた顔で、尋ねる。
「……彩人、真太郎君とお話できるようになったの?」
「え?」
 ん、あれ? 今、会話してた?
 自分でもよくわからん。まあ、いいや。
 積木が字を読めるかは知らないし、読めたとして、彩人の字を解読できるかどうかはまた別の問題だけど。積木にこれを、持っててほしいって、思ったんだ。
 自由研究なら、また何かでっちあげればいい。母さんにはまた怒られるだろうけど。
 彩人が去ろうとしても、積木は熱心にノートを読んでいた。
 ガラス扉を押し開けながら、彩人は振り返って、言う。
「君、強いよ。積木」
 積木が、顔を上げた。ガラスが反射して、彼の顔に柔らかな光を投げる。
「きみ、つよいよ、つみき」
 彩人はにやっと笑って、夏空の下に駆けだした。

 

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「鬼ヶ島通信」70+7号《鬼の創作道場》課題部門「言葉遊び」投稿作(落選)。

「主人公は背伸びがなくて好感がもてる」「作りすぎている。もっと隙のある書き方をするとよい」「短編だと難しい題材」「覚悟が必要」などのご講評をいただきました。那須田淳先生の詳しい赤ペンは本誌にて。

 デビュー以来ずっとエンタメ畑でやってきたせいか、たしかにお話やキャラクターを「作りすぎ」て、繊細な部分がガバガバになりがちだなと反省しました。主人公の年齢設定にも難があったようです。勉強して、また挑戦します!