シンデレラ・コンプレックス
というのがありまして。若桑みどり先生の『お姫様とジェンダー』*1を読んでから、ずっと気になってはいたのです。
もちろんこれは別に最近現れた概念ではなく、以前からちょいちょい聞く話ではあり、Wikipedia読めばうっすら分かった気にはなれるんですけど、「うっすら分かった気になってる」ときってほとんどの場合「全然わかってない」ので、なにはともあれ原典を読んでみた。
www.kinokuniya.co.jp
他者に面倒をみてもらいたいという根深い願望、個人的・心理的な依存が女を押さえつけている…。わたしはそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける。そして、シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ちつづけているのだ。
「シンデレラのように、いつか素敵な王子様が現れて、私を幸せにしてくれるはず」そう思いながら、ただただ待つ。助けてほしい。守ってほしい。その依存的願望=シンデレラ・コンプレックスが、女性の自立を妨げているのだ、というのが著者ダウリングの主張なわけです。(もちろん依存的願望は女性に限ったことではないのですが、少なくとも本書の中で扱われるのは女性におけるそれです)古い本なのでちょいちょい引っかかる部分はありますが、いやでもわかる、わかるなー、というのが個人的な感想です。
ここで改めて言うまでもなく、「囚われ、助けられ、守られる」という旧式のプリンセス像は、もはや完全に時代遅れであるにもかかわらず、物語の形で今もなお繰り返し語られ続け、女の子を縛る呪いにもなっています。女の子が、女の子であるというだけで、自ら「助け待ち」の態勢になり、自分の可能性を狭めているのだとしたら、それはとても悲しいこと。書き手としては、そういう旧い価値観を無自覚に焼き直すようなことは避けたいなと思います。
とはいえ。とはいえ私だってシンデレラ好きだし*2、ドレスアップのシーンはワクワクするし、恵まれない境遇の主人公が成り上がっていくお話は、テッパンの面白さだと思うし。シンデレラが好きな女の子に「こんな物語は時代遅れだから読んじゃいけません! ガラスの靴*3は処女性の象徴で、あなたの独立心を奪い家父長制のうちに囲い込むのよ」とか言うのは、なんだかなあ。
で思うんですけど、物語は生き物だから、時代によって読み替えるのも全然アリ。ガラスの靴、いいじゃん。だって、靴って、履いて、歩き出すためにあるものでしょう。考えようによっては、とてもポジティブなモチーフとも言えるのではないでしょうか。
通りを渡るということ
『シンデレラ・コンプレックス』の中で印象的だったのが、著者ダウリングが見る「通りを渡る」夢です。
街のすさまじい雑踏に、わたしはたじろぐ――人の群れ、音、車の流れ。(…)
「とにかく動くこと」内なる声がせきたてた。「いつまでも突っ立ってるわけにはいかないんだから」(…)
通りを渡るということが肝心だったのだ――一歩ずつ、車やトラックにはねられないよう気を配り、活動と行動と喧騒の中を分け入って進む――まったくの独立で。
通りを渡ったとき、わたしは気もやわらぎ、おじけづかなくなり、目の前にひろがるこの午後の光景になんとも愉快な気分になった。傷つくことなく通りを渡ったのだ。(…)
要するに、わたしは充足を感じた。
ハーレムの騒がしい大通りを自力で渡りきる夢を見て、著者は覚醒する。これまで自分を縛っていた依存的願望にさよならして、自分の力で生きていこうと決意します。
王子様が白馬を駆り竜と戦っているというのに、お姫様のほうは「通りを渡る」だけなんて、ちっぽけな冒険だなと思いますか? そんなことないんじゃないかな。だって、「通りを渡る」というのは、ものすごく勇気が要ることだから。
というのも、シンデレラとは全然関係ないんだけど、この「通りを渡る」くだりで、私、映画『ガタカ』を思い出したんです*4。
主人公は事情があって近視である(裸眼だとほとんど何も見えない)ことを隠しています。でもある日、コンタクトを外した状態で通りを渡らなければならなくなる(どんな状況? って感じだけど、まあ事情があるんです)。
目の前の通りを、高速で行き交う車。視界はぼやぼやで、危ない。でも、渡らなければならない。助けはない。だからあるとき覚悟を決めて、ひとりで渡る。無事に渡り切ったのち、美しい朝日を見る。とても印象的なシーンです。
のちにヒロインが言います。
You couldn't see, could you? That night, crossing the street. You crossed, anyway.
見えなかったのね。道路を渡った時。でも渡れた。
でも渡れた。渡れたんです。
思うに、「通りを渡る」ことは、「挑戦する」ことの比喩なのです。周りにどれだけ不可能と言われても、やってみる。誰のためでもなく、自分だけのために。できない理由を探す前に、踏み出す。それは怖いことだし、事実危険だし、もしかしたらやっぱりできないかもしれない。でも、渡らなければ、あの美しい朝日は絶対に見られないのです。
そういえばちょっと前のドラマ『大豆田とわ子と3人の元夫』にも「信号のない横断歩道を渡るのが怖い」キャラがいたなあ。「通りを渡る」ということは、怖いことなんですよね。本質的に。どこから何が出てくるかわからんしさ。だいたい、真正面から襲ってくるドラゴンばかりが敵じゃないでしょう。頼んでもないのに急に脇から出てきて「やめときなさい!」って進路を阻む、おせっかいな障害が、特に女の子の人生には多いんじゃないかと思う。
でも当然だけど、女の子にだってできるんですよ。やろうと思えば。歩き出してしまえば。ふらつきながらも裸眼で道路を渡り切った、『ガタカ』の主人公のように。
だからこそ、女の子にはどんどん「通りを渡って」ほしい。自分の足で世界に飛び出して、人の行き交う大通りをずかずか歩いてほしい。「怖かった。でも渡れた!」「私、案外できるじゃん!」という成功体験を、なるべくたくさん得てほしい。女の子だけがお城の中で大事に大事に守られてなきゃいけない理由なんて、どこにもないんだから。
ときに失敗しつつも、挑戦し、自分ひとりの力で幸せになる。そういう道は、性別にかかわらず誰にも平等に開かれているべきです。自分の人生を自分で動かせるという実感は、生きていくうえで欠くべからざることだと思うわけです。
現代のガラスの靴は、王子様に選ばれるためじゃなく、シンデレラが自力で踏み出す一歩のためにあってほしいと思います。
で、宣伝
とかなんとか思いながら書いたのが、『毒舌執事とシンデレラ』シリーズ(講談社青い鳥文庫)です。エンタメなので別にテーマとかはなくたっていいんですけど、でも書きながらずっと『シンデレラ・コンプレックス』が頭にありました。
トンチキな題名ですが、いたって真面目です。私こんなだから、すぐチョケちゃうんですけど、でもほんとに本気で書いたので、たくさんの方に読んで欲しいです。応援してください!
aoitori.kodansha.co.jp
詳細はこちら↓
eight-tenkawa.hatenablog.com
2巻はこちら↓
ぜひぜひ、ご感想くださると嬉しいです! 青い鳥文庫ウェブサイトなどから、お気軽にどうぞ。
長くなっちまったな。わはは。今年も頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。