青の名前

青の名前

天川栄人のブログです。新刊お知らせや雑記など。

MENU

【短編】ミオの話

※以前noteに載せたものの再掲です。

f:id:eighttenkawa:20210325221903j:image

 金曜の晩。家に帰ると、ドアの前にミオがいた。
「びっくりした。ミオじゃん。半年ぶり?」
 ミオは私の言葉には答えず、ただ顎をクイッとやって「いいから早く入れろ」という仕草をした。可愛くないやつだ。
 私は鍵を開けながら横目で彼女を見る。相変わらずきゃしゃな身体に大きな目、全身真っ黒で、いつもどこか怒っているような顔。
「ちょっと痩せたね」
 ミオは不機嫌そうに鼻を鳴らし、家主の私よりも先に部屋に入った。

✳︎

 ミオが私の家に転がり込んできたのは、三年前の春だった。
 飲み会帰りの真夜中。身体の芯まで突き刺すような寒さの中、ミオは私のアパートの前で、月曜の朝の生ゴミみたいにうずくまっていた。
「えっ、死んでる?」
 身体をさすると、彼女は呻き声を上げて私の手を振り払った。命に別条はなさそうだったけれど、こんなに冷える日にこのまま放っておくのもどうかと思われて、私は躊躇いつつも、彼女を家に連れて入ったのだった。
 私は彼女をお風呂に入れ、翌日の昼まで眠らせておいた。
 彼女の身体は傷だらけだった。

 それ以来、ミオとの二人暮らしが始まった。
 といっても、ミオは好きなときに出て行くし、好きなときに帰ってくる。ご飯は私が用意することもあるし、彼女が勝手にどこかで食べてくることもあった。
 ミオは無口で無愛想で、短気なくせに構ってちゃんだった。虫の居所が悪いと、そばにいるだけで怒られたりした。かと思えば私のベッドで一緒に眠りたがる日もあった。
 どこから来たのかも、年齢も、本当の名前すら分からない。駅前の飲み屋街をうろちょろしているのを見かけたこともあった。そういうときミオは私のことを徹底的に無視した。後でミオが後ろめたそうな顔で帰ってくると、私はなんだか勝ったような気持ちになったものだった。

✳︎

「ごめん、今食べられるもの何もないわ。ビールしかない」
 試しに冷蔵庫を開け、その寂しさに我ながら悲しくなりつつ、ミオの方を振り返る。すると彼女はもう我が物顔でソファでくつろいでいた。
「元気にしてた? 何しに来たの?」
 無言。
「まあいいけど。泊まっていきなよ」
 無言。
 この感じも久しぶりだ。ミオは愛想というものを知らない。だから私も気を遣わないで済む。
 ミオの隣は楽だった。地方大を出て上京して数年、「こんなはずじゃなかった」の繰り返しでうんざりしていた私にとって、ミオと一緒にいるときだけが唯一自分に戻れる瞬間だったのかもしれない。

 夢に燃えてトーキョーに出て来たはずだった。でも都会だからって何が変わるわけでもなかった。女だから新規顧客は任せられないと言われ、田舎の親には早く結婚しろとせっつかれ、 課長のつまらない冗談に中身のない笑顔を返すための筋肉ばかり発達する日々。その全てが、あまりにも典型的な苦悩の数々が、自分が何者でもない存在であるという事実を突きつけてくる。テンプレートみたいな人生。標準プラン挫折つき。夜も眠れないほど辛くても、愚痴ったそばから「分かる〜」の一言でねじ伏せられてしまうのだ。
 いつだって空回りしていた。月曜日が来るたびに絶望し、家に帰ると自動的に涙が出た。そういうとき、ミオは何も言わなかった。慰めることも元気づけることもしなかった。ただすすり泣く私に背中を預けてじっとしていた。
 ミオは優しくはなかった。でも、ミオの温度とか匂いとか吐息とか、そういうのがあったから、私はギリギリ生きていられた。
 心を殺して週5日働き、土曜は死んだように寝て、日曜の昼ごろようやく起き出してビールを飲みながらテレビを見た。そばにはミオがいた。それでよかった。

 そういう日々が三年ほど続いた。
 私は惰性で働き続けた。ふとした瞬間に隙間風みたいに虚無が吹き込んできたけれど、もう大人だったから、気づかないふりをすることができた。そういうのばっかり上手くなった。
 ミオは、だんだん家に帰らなくなった。
 何が原因ということはなかった。ミオはもともと気まぐれだったから、数日帰ってこないこともよくあった。それが一週間になり、三週間になり、気づけばミオが家にいる日の方が少なくなっていった。そうこうしているうちに、私には恋人ができて、ミオはいよいよ私の家に寄り付かなくなった。
 同時に、ミオは体調を崩していった。
 今思えば、どこか悪かったんだと思う。夜中、部屋の隅で蹲っていることが増えた。大声で呼びかけても反応しないこともあった。
 でも、ミオは医者にかかることを頑なに嫌がった。ある日、私はついにしびれを切らし、彼女を無理やり病院に連れて行こうとした。ミオは本気で怒って、家を飛び出した。
 その日を境に、彼女はぱったり姿を現さなくなった。

✳︎ 

「どこで何してたの?」
 ミオは答えなかった。代わりに、目ざとく私の薬指に光るものを見つけ、恨めしげに睨んだ。説明するのは私の方ということだ。
 私は苦笑し、ビールを煽った。
「やっぱお腹すくな。ちょっと待ってて」
 キッチンを漁ったらスパムの缶があったから、適当に焼いて、ちびちびつまんだ。ミオにも勧めたけど、ミオは食べなかった。
「結婚するの。仕事辞めるんだ。この部屋も来月引き払う」
 私が観念して告白すると、ミオは怒ったような顔をした。そんな反応しないでよ。
 婚約者は基本的にいいやつだ。きっと私を大事にしてくれる。そのうえ銀行員で、春から支店長になる。後悔はない。でも、
「なんだったんだろうね、この数年間」
 私の東京での日々。心をすり減らした会社生活。結局何者にもなれず、何も成し遂げられず、悩んだ挙句、誰かの作った幸せの型に自らはまりに行くのだ。
「……なんだったんだろうね」
 ミオがあくびをした。
「もう寝ようか」
 ミオはしぱしぱ瞬きした。シャワーも浴びず、私たちは久しぶりに並んで眠った。

 夢の中で、ミオの声を聞いた。
「あたし、もう来ないよ」
 つんとした、不機嫌そうな声で、ミオは言った。
「もう来ない。さよなら言いにきたの」
「……そうか。そんな気はしてたんだ」
 奇妙な浮遊感の中、ミオの声はこう尋ねる。
「あたしがいなくなったら寂しい?」
「寂しいよ」
「でもいつか慣れるわ」
「そうかもね」
 ミオが笑った気がした。そして彼女は言う。
「ねえ、楽しかったね?」
「うん。楽しかった」
「頑張ってたよ、きみは」
「うん。ありがとう、ミオ」
 ミオと過ごした日々は、きっと無駄じゃなかったよ。

✳︎

 目がさめると、泣いていた。
 私の隣に、ミオはいなかった。
 しばらくベッドでぼうっとしていると、玄関の鍵が開く音がした。婚約者だった。そういえば今日ランチに行くって話してたんだっけ。
「どうしたの? 何かあった?」
 ずいぶん酷い顔をしていたらしい。彼は心配そうに尋ねた。
 私はベッドの上で膝を抱えた。
「ミオが来てたの」
「えっミオちゃん? 久しぶりじゃん。俺も会いたかったな」
 少し笑う。それはもう無理だから。
「あの子もう来ないよ」
 私は窓の外を見やる。よく晴れていた。
「さよなら言いに来たんだって」
 彼は少し考え、落ち着いた声で言った。
「そうか。分かるっていうもんね」
 その後、彼はベッドに腰掛けた。赤ちゃんにやるみたいに私の頭を撫でながら、
「ねえ、どうしてミオちゃんって呼んでたの?」
「尻尾が綺麗だったから」

 美尾。きゃしゃな身体に大きな目、全身真っ黒で、いつもどこか怒っているような顔。
 無愛想で気まぐれで、でも弱い私に寄り添ってくれた。

「いい子だったね」
「うん」
 ミオ。もう会えないけど。
 楽しかったよ。じゃあね。